この一年くらい、なぜ人はおかしくなるのかということをずっと考えていた。
期せずして、40歳を超えてから自分と向き合うことになり、内観の記録をあちこちに放り投げ、時々うんざりしながらも、自分という究極のダメ人間の記録を着実に残してきた。
若い頃の私は、自分の歪んでいる様を友人やパートナーに指摘されても、決して直そうとはせず、
それを個性と呼称して、むしろ自分以外の他の人間が馬鹿なんだ、社会のルールの方がおかしいんだと思っていた。
この数年で、個性という言葉を味方につけると、自分を修正する機会を失うということを痛感し、個性と人格の歪みは全くの別物であることを知った。
私は世の中に、そして自分自身にずっと絶望していた。
しかし、絶望はまだ本当の底ではなく、絶望の先にはもう一つ諦めという底がある。
そして、その諦めという敵が非常に厄介で人生を狂わす。
多くの人は、絶望したことはあっても、何かを強烈に諦めた体験がない。
そういう人には決してわからない世界がその先にはある。
私はその諦めという世界に行き、そこで何層にもなっている諦めの実態を知り、その世界を誰よりも深く追求した。
基本的に誰とも話が合わない、友達がいない。
それは多分、根本的に見ている世界が違うからなのだと思う。
深く絶望していたとはいえ、そこから這い上がるために積み重ねてきた努力は尋常ではなく、やり過ぎたことにより、人生で3回死にかけた。
むしろ、そこで死んでいて欲しかった。
この一年間、自分と真剣に向き合い、私が捻り出した答え。
それは決して難しいものではなかった。
むしろ、驚くほどシンプル過ぎたがために、私はそれを馬鹿だと思い、人生から全て排除してしまっていただけだった。
ゴミとして捨てていたものの中に、必要な答えが全て入っていると気付いた時、私は蘇生した。
人は生き返る。
だから絶対に諦めてはいけない。
人生が生きづらくてどうしようもなくて、難しい思想にすがらなければ生きていけない時期もあったけれど、
生きる上で難しい話など全く必要ではないどころか、むしろそれをすると、
自分の本当の声がどんどん偽物の声や知識や情報にラッピングされ、一向に真実に気付けない。
私が今までにしてきた勉強は、絶望の果てに行ってしまった自分を救うためのものであり、
子供を絶望の果てに追いやった親を理解するためのものであり、純粋に人生を良くするためのものではなかったように思う。
「自分を救う」
こんなことに、人生の大半を費やしてしまったことこそがまさに絶望であり、
そんな事をやっているうちに、気付いたらもう40歳超えてるよ!と笑えるようになった時、初めて人生の本質が見えたように思う。
人生に難しい哲学など必要ない。
難しい言葉であれこれ語りたがるうちは、まだ洗脳が解けていない。
幸せとは実にシンプルなもので、それは子供でも理解できるほど簡単なものであり、その本質に気付くには、本当に心から人生を楽しんだ経験が必要だと思う。
目の前のことをただ楽しむ。
バカになる。
私はそれが出来なかったために人生を詰んだ。
自分は本当に心から人生を楽しんだことがあるか?
この問いの答えがNOであるうちは、ずっと親の呪縛の中で生きているただの奴隷なのだと思う。