最近ずっと、考えていることがあります。
それは、スキゾイドにとっての幸せは所詮、自分のことだけなんじゃないかと。
世間の喧騒から離れて、自分の内面の穏やかさだけ守れればいい。
他者は?
他者との関わりは?
別に他人に害は与えないし、誰にも迷惑かけないからいいよね、というこの態度。
誰得!?
アリストテレスの名言で以下の言葉があります。
「孤独を愛する者は野獣か、しからずんば神なり。」
人間はコミュニティの中で、他者と共存しながら生きていく社会的動物であり、社会から孤立して存在するのは獣か神様だけと言っています。
過去の歴史を紐解いても、おおよそこの答えは一緒で、人間は一人で生きていくことは出来ないというのは、歴史が証明しているわけです。
スキゾイドは人として不自然な生き物。
だからこそ、その不自然さを障害という形で知らせ、その事について深く考えさせるために、生きづらさという苦しみを与えられてるんじゃないかと、最近は思っています。
自分の居場所や安心だけ守れればそれでいい。
そういう生き物は社会には必要ないので、子孫を残させないために、恋愛や結婚に興味を持たせないようにして、諦めさせている。
最近はそんなふうに思っています。
あ、ちなみに、パーソナリティ障害ではない、スキゾイド気質の人は違いますよ。
パーソナリティ障害レベルまでいっていない人は、嫌々ながらでも何らかの形で社会と関わっていると思うので、完全に孤立していることはないはずです。
ただこれは、非常に重要な問題で、私はカウンセリングを受けていた時に先生から「スキゾイドは人として気持ち悪い。生き物として不自然。」と、面と向かって言われたことが今でも忘れられません。
そもそも、パーソナリティ障害を持っている患者に、ズバリそんな事を言う先生も、今考えたらおかしいのですが(笑)、でも本音だったんだと思います。
私は最近、コミュニティについて深く考えており、これは自分自身が最も苦手なものだからこそ、その答えをずっと模索しています。
ただ一つだけ今、決めているのは「孤独を愛さないこと」。
一人でいる時間がたくさんあってもいい。
ただ自ら孤立する道は選ばない。
人間には一人でいる時間と、社会の一員として役割分担を持って、協力し合って生きていく。この両方が必要。
私は自分の残りの人生をかけて、パーソナリティ障害の中でも最も治療が難しいとされるスキゾイドを克服しようという試みをしています。
スティーブ・ジョブスは最後の言葉で、
「神は誰もの心の中に、愛を感じさせるための感覚というものを与えてくださった。私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた思い出だけだ。」
と残して死んでいきました。
単なる記憶なら一人で作れますが、愛情にあふれた思い出は一人では作れません。
1年半前までの私なら、言いたい事はわかるけど、でもどうすりゃいいんだよ!と思っていたと思います。
でも今は、自分の幸せを諦める必要はないとわかっているので、淡々とやります。
この世に生まれてきたことを全力で楽しめる日まで。
私は何のためにスキゾイドとして選ばれたのか、何のためにスキゾイドをやっているのか、その裏に隠された本当の目的とは何なのか。
それを突き止めるまで、死ぬわけにはいきません(笑)
もちろん、生得的なスキゾイドの方は、生まれつきのものであるので、自分ではどうしようもないですが、後天的に原因がある場合は、その原因にまつわる一連の記憶や問題を、一つずつ丁寧に紐解いていけば、非常にゆっくりではありますが、徐々に改善していきます。
実際、スキゾイドの克服で一番しんどいのは、「他者と関わることが死活問題レベルで苦痛である」ということと、「常に一人でいないと自分を保てない」ということです。
これを、どう乗り越えるかです。
ここも私は当事者として嫌というほど経験していますので、実体験ベースで全て話せます。
というわけで、このブログには今後も耳の痛い話しか書きませんので、うっかり流れ弾に当たって嫌な気持ちになる方は、読まないようにしてください。