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内観の記録。その他。

裏技なんてない

今日は、母親が白内障の手術のため、病院まで送り迎えをすることに。

 

「タクシーで行けばいいのに」

 

と思ったものの、「朝8時までに実家に来てちょうだい!」と義務を課されたので、素直な私は黙って指示に従うことに。

 

 

無事に日帰り手術を終え、院内から出てきた母親を見てビックリ。

 

御大層に、顔が半分隠れるほどの大きな眼帯をつけている。

 

 

そしてわざわざ、何か言って欲しそうな顔をしている。

 

仕方ないなぁ・・・と、声を掛けようとして、ここでふと気付く。

 


昔の私なら、間違いなく「たかだか目を手術したくらいで、こんなに大きな眼帯をつけるなんて大袈裟な。別に麻酔してるんだし、痛くもなんともないでしょ。」

 

という態度しか取れなかったので、相手を気遣うような言葉を掛けることは皆無だった。

 

 

何故なら、人生で一度も親からそういう対応をしてもらったことがないから、放置プレイ、塩対応が当たり前だと思っていたからだ。

 

 

でも今日は違った。

 

素直に、「大丈夫?痛い?」と聞く私がいた。

 

この変化に自分でも驚き、単なる白内障程度の手術で、大丈夫?とか聞いている自分に、思わず笑ってしまった。

 

 

私の母は共感力が一切なかったから、子供が病気でも「大丈夫?」などと声を掛けてくれることは、一度もなかった。

 

それどころか苦しんでいる私を見て、まるで他人事のように「かわいそうにねぇ。」と冷酷な態度で嘲笑された。

 

そして、私はそれを見事に受け継いでしまったのだ。

 

 

「これくらい平気でしょ。なに痛いとか騒いでるの。」という優しさの欠片もない非人道的な世界観。

 

でも、それはやはり人として異常であることに気付き、コツコツと直す努力をした結果、人を気遣えるようになった。

 

私はようやく母親を超えたのだ(笑)

 

 

共感力というのは、地味なリハビリで少しずつ養っていくしかなく、暗中模索を続けながら、一つずつ体得していくしかない。

 

やっていることはとても地味だけれど、認知の歪みを正す作業は、一つずつ自分で気付いて修正していく事しか出来ず、ラクして簡単に変わる裏技なんて存在しない。

 

 

母親に「大丈夫?」と声を掛けていた時、本当はその言葉、私が子供の頃に言って欲しかったんだよなぁという、なんとも言えない切ない感情に襲われたが、それも含めて全てが回復の過程なのだと思う。