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内観の記録。その他。

両極に触れて中庸を目指す

相変わらず嫌いなこれ。

 

 

何故みんなが普通にこれをクリア出来るのか謎すぎますね。

 

私は理系なので数字には強いけど、こういうのは本当に苦手です。

 

 

真ん中のハニワみたいなやつ何なんだよって思いますよ、本当に(笑)

 

 

で、最近私が興味があるのが、「その人が人生の道中に何をやってきたかじゃなくて、最後その人が死ぬ時に何を思って死んでいったのか」への興味なんですよね。

 

結局人って道中では色々模索しながら、その時の自分に最適だと思うものを選択して進んでいくじゃないですか。

 

 

でも、本当に人生の最期を迎える時に、果たしてその人生で良かったのかは、結局最後の最後にしか答えが出ないと思ってるんですよね。

 

あの天才と言われたアリストテレスも、たくさんの教えを残して死んでいきましたが、その人生の最期に本当は何を思って死んでいったのかは、もはや誰にもわからないじゃないですか。

 


「人生は振り返った時に初めて理解出来る。しかし、人生は振り返る前に生きるようになっている。」という有名な哲学者の言葉にもあるように、今やっている事ってきっと死ぬ間際になったら、違ったなって思うこともたくさんあると思うんですよね。

 

それこそ中村天風さんが最後死ぬ時に、「俺の教えは全て忘れろ」と弟子に言って死んでいったように。

 

 

でも私たちは今この瞬間をとにかく生きるしかない。

 

それが正解かを確認する術はない。

死ぬ時に感じることが全てである。

 

 

それを最近強く意識するようになったからこそ、私は自分以外の誰かの人生の道中を参考にすることはなくなったんですね。

 

私がメンターを複数置いて、幅広く色々な人の意見を取り入れているのも、そのためなんです。

 

 

例えば私はアリストテレスを我が父と称し、アリストテレスの教えをとても大切に伝えてくれている人のコミュニティにも入っていますが、一方でアリストテレスは悪だと説いている苫米地博士のコミュニティにも入っているわけです。

 

もう考え方は真逆です。

 

 

だって苫米地博士は、「アリストテレスは人間じゃない。あいつは三段論法というとんでもないシステムを人類に洗脳した悪徳宇宙人だ。」と言ってますから、アリストテレスの世界観で生きている人と、苫米地博士のプロダクションルールで生きている人とでは、そもそも全く噛み合わないわけです。

 

 

でも私は最終的に思考を全部中庸に整えたいので、アリストテレスの教えを丁寧に読み解いていくコミュニティにも入っているけれど、一方で苫米地博士の話も聞く。

 

何故なら、両極端な思想を取り入れることで、答えを一つに固定することを避けることが出来るからです。

 


Aという意見もあればBという意見もある。

 

そのどちらもを柔軟に行ったり来たり出来る状態にしておきたいから、あえてそうしているわけです。

 

 

そして常に中庸にいると、どちらでもないという姿勢がとれるので、AにもBにも自由自在に行き来出来るというこの感覚が今はとても心地良いのです。

 

少なくとも、この感覚を持って生きていれば、人生の最後にオセロの石を全てひっくり返されて、絶望することはなくなります。

 

 

だからこそ私は、一人の人にコミットする危険性をずっと伝えているんです。

 

 

また違う言葉では、斎藤一人さんはこう言っていました。

 

「商売するのはいいけど、何かの専門家にはなるな。例えば私は靴職人ですって言ったら、もし靴が売れなくなった時に、もう食えなくなっちゃう。でも私は何でも屋ですって看板を掲げておけば、仮に靴がダメになっても服でもバッグでも何でも売れる。」と。

 

 

私のやり方というのは、まず極端なもの、つまり両極に触れて、それらを全て包含した上で徐々に真ん中に落とし込んでいく。

 

だって両方の極に一回触れてみないと真ん中はわかりませんし、その両極に触れるからこそ、どっちが正しいとか間違ってるとか、そういう話からは外れていくことが出来るからです。

 

 

真ん中に行くには、どうしても両極の考え方に触れる機会が必要なんです。

 

 

そして最終的には誰が何を言ったかではなく、自分がどう思ったかを確立していくことが大切なんです。

 

こうやって凝り固まってるものを、少しずつ解きほぐしていく。

 

 

これを私も日々やっているので、皆さんもぜひ一緒にやっていきましょう。