私の人生における唯一の弱点は母親だ。
お母さんが怖い。
母親が弱点というのは、自分をこの世に産み落とした存在、つまり自分にとっての原点が恐怖から始まっているということ。
今まで感情を全部消していたから気付かなかったけど、私が生きていた世界は、妖怪に呪われた恐怖に満ちた世界だったのだなと。
それだけ怯えていれば、身体からエネルギーが全部なくなって、全てどうでも良くなって、自分をどうにか温存するためだけに生きるようになるのは、当然だと思った。
何気に昨日の話の続きなんですが、白内障の手術後というのは、2日連続で眼科に経過を見せに行かなければならず、また今日も母親を病院まで送って行ったんですね。
その道中、母が、
「あんた、何でわざわざこんな道から行くの?もう一本向こうの道から行きなさい。
あ、このルートはダメよ。次の信号を右に曲がりなさい。
ちゃんと一時停止しなさいよ。カーブを曲がる時はもっと減速しなさい。
あなた本当に運転下手ねぇ。免許取って何年経つの?」
もうとにかくうるさい(-_-;)
聞きながら、来た来た来た。
何でも自分の思い通りにしようとするやつ!と思いましたよ。
普段離れて住んでいると、すっかり忘れているのですが、久しぶりに会うと、これこれこれ・・・と思い出すんですよね。
子供の頃にずっとやられていたやつ。
妖怪ママンの呪い(笑)
言わせてもらいますけど、私は若い頃から車が好きで、国内A級ライセンスまで持っている人間です。
普段からMT車を乗りこなし、昔はモータースポーツをやっていたほど、運転が好きなんです。
車を愛しているから、乱暴な運転など絶対にしません。
交通ルールもきっちり守るので、ずっとゴールド免許です。
結局お母さんは、ただ言いたいだけ。
理由は何でもいいんです。
とにかく子供を支配したい。
いちいちここを曲がれ、その道はダメだと全部指示し、子供が自分の意志で好きな道を選んだら、容赦なく人格を否定してくる。
昔と全く変わっていません。
普通に考えて、子供が送り迎えしてくれたら、第一声はまず「ありがとう」じゃないんですかね?
何でか知らないけど、私の母は安易に「ありがとう」って言ったら負けだと思ってるらしく、滅多にお礼を言いません。
なにその価値観。
世間と大分ズレてるんですけど('◇')ゞ
私は手術したばかりの目に、余計な振動を与えてはいけないと思って、多少遠回りになっても、段差や揺れの少ない道をわざわざ選んで車を走らせたんです。
でも、そういうのは、お母さんには一切通用しません。
子供の考えなんてどうでもいい。
あなたは、お母さんの言う事だけ聞いていればそれでいい。
そういう世界観です。
支配と服従の関係を乗り越えるのは、本当に大変です。
子供の頃は、お母さんに逆らったら殺されると思っていたので、完全に従順なひつじさんと化していましたが、今は私の意識の中では、もうそのゲームからはとっくに抜けています。
しかし、相手が一向に変わる気配がないので、こうして時々会った時だけ実害が及びます(笑)
子供時代、完全な母親の支配下に置かれていて、私には人権、自由意志、選択権が何一つなかったので、
その頃のことを思い出すと、小さい体でよくあの辛い環境に耐えたな~と、自分で自分を癒したい気持ちになります。
2年前と違って、もう生きづらさのようなものは全くなく、内観自体も楽しくやっています。
あ、またこのパターンか!って思うだけなので、気持ち的には楽勝です。
特に最近はハッキリと、
お母さん、うるさいんだけど!!
と言えるようになったので、私の反抗的な態度に母はイライラしているようです(笑)
もう40年、私を利用したんだから十分でしょ。
確かな手応えを感じているので、そのうち要塞が一気に崩れるかもしれません。
今日は、母親が白内障の手術のため、病院まで送り迎えをすることに。
「タクシーで行けばいいのに」
と思ったものの、「朝8時までに実家に来てちょうだい!」と義務を課されたので、素直な私は黙って指示に従うことに。
無事に日帰り手術を終え、院内から出てきた母親を見てビックリ。
御大層に、顔が半分隠れるほどの大きな眼帯をつけている。
そしてわざわざ、何か言って欲しそうな顔をしている。
仕方ないなぁ・・・と、声を掛けようとして、ここでふと気付く。
昔の私なら、間違いなく「たかだか目を手術したくらいで、こんなに大きな眼帯をつけるなんて大袈裟な。別に麻酔してるんだし、痛くもなんともないでしょ。」
という態度しか取れなかったので、相手を気遣うような言葉を掛けることは皆無だった。
何故なら、人生で一度も親からそういう対応をしてもらったことがないから、放置プレイ、塩対応が当たり前だと思っていたからだ。
でも今日は違った。
素直に、「大丈夫?痛い?」と聞く私がいた。
この変化に自分でも驚き、単なる白内障程度の手術で、大丈夫?とか聞いている自分に、思わず笑ってしまった。
私の母は共感力が一切なかったから、子供が病気でも「大丈夫?」などと声を掛けてくれることは、一度もなかった。
それどころか苦しんでいる私を見て、まるで他人事のように「かわいそうにねぇ。」と冷酷な態度で嘲笑された。
そして、私はそれを見事に受け継いでしまったのだ。
「これくらい平気でしょ。なに痛いとか騒いでるの。」という優しさの欠片もない非人道的な世界観。
でも、それはやはり人として異常であることに気付き、コツコツと直す努力をした結果、人を気遣えるようになった。
私はようやく母親を超えたのだ(笑)
共感力というのは、地味なリハビリで少しずつ養っていくしかなく、暗中模索を続けながら、一つずつ体得していくしかない。
やっていることはとても地味だけれど、認知の歪みを正す作業は、一つずつ自分で気付いて修正していく事しか出来ず、ラクして簡単に変わる裏技なんて存在しない。
母親に「大丈夫?」と声を掛けていた時、本当はその言葉、私が子供の頃に言って欲しかったんだよなぁという、なんとも言えない切ない感情に襲われたが、それも含めて全てが回復の過程なのだと思う。
今から14年前、友人が亡くなった。
交通事故だった。
共通の趣味で知り合ったその男友達とは、毎日連絡を取り合うほど仲が良かった。
彼は結婚していたので、私の名前を男性の仮名で携帯に登録し、女の子の友達がいることは、奥さんには隠していた。
別にやましい事は何もないのに、奥さんが怖くて、女友達がいるとバレるだけで殺されると言っていた。
俗に言う鬼嫁だ(笑)
元々知り合ったきっかけは音楽の趣味が一緒だったからで、他にも共通の友人が何人もいて、いわゆるグループでよく遊んでいた。
ところがある日、その友人から個人的に誘われるようになった。
彼はトラック運転手をやっていて、東京から大阪までの長距離を定期的に移動していた。
その通り道に住んでいた私は、「良かったらトラック乗らない?ドライブ行こうよ♪」と誘われるようになった。
警戒心の強い私は、男性と車内で2人きりになることを恐れて、最初は断っていたが、そのうち一緒にドライブに行くようになった。
それは純粋に、その男友達を信用していたからだ。
仕事中の彼がトラックで迎えに来てくれて、私をピックアップし、そのまま東名高速で大阪まで行く。
車が好きな私は、見晴らしの良いトラックの助手席に乗るのが、何気に大好きだった。
そうして何度か一緒にドライブに行くうち、友人が私を口説いてくるようになった。
当時、私は離婚して間もない頃で、家に一人でいるのがとても辛く、何かで寂しさを紛らわせたかったのかもしれない。
安易に車に乗り、頻繁に2人きりで遊んでいるうち、必要以上に距離が近くなってしまった。
どうせ本気ではないだろうと思っていたので、真剣に取り合わなかったのだけど、そのうち身の危険を感じるようになった。
何度か性的なことをされそうになり、さすがに怖くなった私はキレた。
一体何が目的なのか。
私たちは友達ではないのか。
そもそも、奥さんも子供もいる人が、私を口説くとはどういう事なのか。
普段めったに感情的になることがない私が、なぜかその時は激しく感情のスイッチが入り、実に5時間も延々と電話で彼に説教をした。
昔から長いこと、「男女間で友情は成立するのか」という問いがあるように、男と女が一緒にいたら、友情以外の何かが起きることくらいは知っている。
過去にも何度か経験したし、それ自体は何とも思わない。
でも、やっぱり素敵な奥様がいて、かわいい子供が3人もいるお父さんが、仕事中に女友達をトラックに乗せて、不倫のような行為をすることは、道徳的にどうなのか、という所を問い詰めずにはいられなかった。
もう勘弁してくれ・・・という友人に、「まだ話は終わっていない」と、しつこく人としてのダメ出しを続けた挙句、私は最後にこう言い放った。
「もうあなたとは友達じゃない」
そうして絶縁宣言のようなことをして、電話を切ったあと、しばらくして私は後悔に襲われた。
ちょっと言い過ぎたかな。
でも向こうも悪いんだ。
しばらくして気持ちが落ち着いたら謝ろう。
そう思っていた。
しかしその日は二度と来なかった。
次の日の午後、携帯が鳴った。
共通の友人からだった。
「あいつ死んだよ。」
えっ・・・。
私は絶句した。
交通事故で、ほぼ即死だった。
昨日まで生きていたのに。
なんで?
とても信じられなかった。
彼と最後に会話をしたのは私。
私のせいだ。
私が彼を追い詰めるようなことを言ったから、いつもと違う精神状態で朝を迎えてしまったのかもしれない。
仕事に向かう途中の国道16号で、彼は帰らぬ人になった。
こういう時に後悔という言葉を使っていいのかわからない。
でも私は謝る機会を永遠に失った。
私が彼に最後にかけた言葉は、
「もうあなたとは友達じゃない」
そして、奥さんと子供を裏切るなんて、人として最低だとも言った。
次の日に死ぬとわかっていたら、絶対に言わなかった。
彼の葬儀に参列したかったけど、男性だけが呼ばれ、女性は来ないように言われた。
奥さん以外の女性とは一切交流がないと嘘をついていたから、急に参列したら「誰?」となってしまうからだ。
別の男友達から、憔悴しきった奥さんと子供たちを見て、何の声も掛けれなかったと言われた。
人には寿命がある。
事故で亡くなったことも、単なる寿命だったのかもしれない。
でも、私は自分を責めた。
一緒に過ごした時間は楽しかったし、くだらない事を話して笑える貴重な友達だった。
何でこんな事になったのか。
私に残ったのは、酷い事を言ったのに謝れなかったという後悔だけ。
それ以来、私は今まで以上に言葉に気を付けるようになった。
今、自分が話している言葉は、もしかしたら相手にとって、最後の言葉になってしまうかもしれない。
そう思って話をするようになった。
そしてその日から、感情的な言葉は一切言わなくなった。
この出来事は生涯忘れるはずもなく、命日の度に思い出している。
子供の頃、どうしても学校に行きたくなくて、何とか学校を休む方法はないかと考えた結果、
当時主流だった、水銀体温計を毛布で擦り、39度まで上げて母親に体温計を見せた。
「お母さん、頭が痛いです。熱があります。」
と言って、恐る恐る体温計を差し出すと母は、
「39度がなんなの!こんなの熱があるって言わないでしょ!
体温計は42度まであるの。42度超えなかったら死なないの。学校に行きなさい!」
と言って、もの凄く冷酷な態度で淡々と怒られた。
母親の認識では、体温計の目盛りの42度を超えたら、つまり温度が42度まで振り切ったら、そこで初めてやっと病気として扱ってもらえる。
頭が痛いとか、熱があって辛いという言葉は、42度を振り切ってから言えと。
39度なんて、まだ目盛りで表示できているんだから病気ではない。
これくらいでは死なないという態度だった。
母親には何一つ、甘えは通用しない。
そもそも、痛いとか苦しいという言葉を口に出すと、容赦なく怒られた。
「痛いって口に出したら、それで痛みが消えるの?消えないでしょ。
だったら、いちいち痛いとか言うんじゃない!」
なんて理不尽な怒られ方なんだと思った。
その結果、私は痛みに異常に強くなり、骨が折れても、内臓が溶けても、顔が潰れても全然平気になった。
痛みの感覚が完全に狂ってしまったのだ。
かつて事故で救急搬送された時、こんなに痛みに強い人を初めて見たと担当医に言われた。
でもそれをようやく直した。
今では、ちょっとでも痛かったら、すぐに痛いと言えるようになった。
その結果、他人の痛みが分かるようになった。
昔の私は他人の痛みが分からなかった。
42度までは死なない
この世界観で生きていたから、他人にもそれを強要していたからだ。
この性格のせいで、随分色々な人から冷たいと言われたし、たくさんの損をした。
何より、自分が病気で倒れた時、「なんでこんな状態になるまで放っておいたんですか。」と医者から言われることが多かった。
母親が何でこんな育て方をしたのか分からない。
でも私は実家にいた時、母親が弱音を吐いたり、痛みや苦しみを口にしているのを、一度も見たことがない。
母親自身も、相当痛みに強かったのだろうと思う。
お母さんの教育は間違っていた。
痛いものは痛い。
そう言えない人間は、いずれ心を病む。
正直今でも私は、異常なレベルの強い精神力を持っているが、この強い精神力が身に付いたことを感謝しているかと言えば微妙だ。
むしろ、失ってはいけない大切なものを失ったような気がずっとしている。
そして40年経った今思う。
本当はお母さんに優しくしてもらいたかった。
病気の時は寄り添ってもらいたかった。
学校に行きたくない理由をちゃんと聞いて欲しかった。
でもお母さんはそれが出来なかった。
他人を思う心を持っていなかった。
子供の気持ちが分からなかった。
ずっと辛かった。
寂しかった。
痛い時は痛いと言う。
当たり前のことだけど、その方がよっぽど人間らしいし、生きてるってそういう事だと思う。