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内観の記録。その他。

耳を疑う言葉

実家の母から電話がありました。

 

「あんた、間違ってもホテルの最上階から飛び降りるんじゃないよ。

 

馬鹿なこと考えるんじゃないよ。わかったね?」と。

 

 

神田沙也加さんの訃報の後の電話だったので、すぐに意味を理解しましたが、何で急にこんな電話をしてきたのか聞いてみると、

 

「あんた精神科通ってたでしょ?スキゾイドだか何だか知らないけど、変な気起こすんじゃないよ。」と。

 

 

ああ、確かに診断の時に一度だけ、母親に病院についてきてもらったことがあったので、それで心配してくれたのかと思いました。

 

ただ母はスキゾイドはもちろん、パーソナリティ障害についても、何一つ理解していません。

 

 

それどころか、精神科医に「私の子育てが間違ってたって言いたいんですか!!」と食ってかかった人ですから、自分は悪くないとずっと思っています。

 

それに今はもう精神科には通ってないし、むしろあなたの知らないところで、着実に回復しています。

 

自分の力で。

 

 

なのに。

 

「だいたいねぇ、お母さん、あの松田聖子って人、どうも好きになれないの。子供のこと、何も考えてないじゃない。

 

娘のことほったらかしで、自分の幸せばっかり考えて、あの人こそ母親失格だと思うわ。」

 

 

そして、ここから延々と、松田聖子様の子育てがいかに失敗であったか、あんな母親を持ってしまった神田沙也加さんがいかにかわいそうであったかを、ずーーーーっと聞かされました。

 

 

って、ちょっと待てー!!

 

 

お母さんも相当だぞ。

 

娘を諦めの境地に追い込んでスキゾイドにして、子供の人生狂わせた張本人だぞ。

 

 

それ、どの口が言ってる??

 

と激しい怒りがこみ上げてきました。

 

 

あなた、戸塚ヨットスクール戸塚宏みたいな教育をしておいて、子供の人格を粉々にしておいて、よく言うわ。

 

今まで自分が歪んでいたから、お母さんの歪みが全く見えていませんでした。

 

 

でも今は、自分の歪みが取れてきたから、お母さんの歪みがハッキリと見えます。

 

他人の悪口を聞かされるのもいい気がしないけど、それよりお母さんが他人の子育てを批判するなという怒りで、また皮膚のかゆみが止まらなくなりました。

 

 

怒りって皮膚に出るんですかね?

 

あと言っとくけど、スキゾイドは感情薄いから、希死念慮もないねん。

 

 

自分を消して淡々と生きるねん。

 

たとえほんの僅かな苦しみを感じたとしても、誰にも告げずに一人で孤独な生き方を選ぶねん。

 

 

親だったら、それくらい知っとけ。

父親への強い恨みを解放しています

私は父親に強い恨みがあります。

 

それは、子供時代に私を助けてくれなかったこと。

 

そして、守ってくれなかったことです。

 

 

私は子供時代、ずっと母親に強い支配を受けていました。

 

母親の言うことを聞かないと、容赦なく怒られ、否定される。

 

 

その様子をずっと近くで見ていたのに、お父さんは何一つ助けてくれなかった。

 

私を救ってくれなかった。

 

 

こいつ逃げやがって。

 

という父親に対する強い怒りです。

 

 

何なら、父親も一緒になって、母親に支配されていました。

 

 

何でだよ。

お前が惚れて一緒になった女だろ。

 

なんとかしろよ。

 

 

何でお前まで一緒になって支配されてるんだよ。

 

大人なのに、何でなにもしてくれないんだよ。

 

 

子供が人格を損なうほどに厳しくされてるのに、なんで何も思わないんだよ。

 

という強い怒りが抑圧されていることに気付き、この2週間くらいずっとその抑圧された感情を解放していました。

 

 

そうしたら、全身の皮膚がボロボロになり、あちこち血だらけでかゆいです。

 

地獄です。。。

 

 

この怒りや恨みは相当根深いです。

 

少なくとも、実家で暮らしていた時の18年分溜まっています。

 

 

この怒りを出す時というのは、なるべく汚い言葉で相手を罵倒するのがポイントで、穏やかに解決しようなんてやっていたら、一向に心は直りません。

 

なので、汚い言葉を使うことにはとても抵抗があるのですが、あえて父親を「お前」とか「こいつ」と言っています。

 

 

そうすると、ふと気付きます。

 

 

私は、もともと穏やかで優しい性格だったから、そこを母親に利用されたんだなと。

 

こいつ、支配できるなと思われたんだなと。

 

 

子供に対して何でそんなことをしたのかは、母親の領域なので私が触れるべきところではありませんが、毒親は連鎖するので、母も何かの形で、自分の両親からされたことを私にして返したのでしょう。

 

 

よくもやりやがったな、という母親に対する強い怒りも当然あります。

 

何が腹立つって、それが教育だと思っているところなんだよ。

 

 

あなたを素晴らしい人間に育てようと思ったから、厳しい教育をしたのであって、それ自体に悪気はないのと母親は言う。

 

 

嘘つけ。

 

お前その裏に、自分の両親から植え付けられた劣等感や、怒りや恨みや悲しみを抱えてるだろ。

 

 

それを自分で解消せずに、その抑圧されたストレスを、私を使って解消しただろ?

 

もうね、ずっと認知行動療法をやっていると、ここまで鮮明にわかってきます。

 

 

ムカつく。

 

人生で初めてムカついてる(笑)

 

 

駅前の駐輪場に並んでいる自転車を全部蹴り倒したいくらいの強い怒りが、行き場を失って、皮膚のかゆみとして出てきて、本当に辛いです。

 

ただでさえ、乾燥する時期なのに、着てる服が全部血だらけになる。

 

 

支配も義務も否定も全部地獄じゃ!!

 

お前も同じことやられてみろ。

 

気が狂うぞ?

ジャッジしないと運が良くなる

今日は番外編というか、ちょっと長いですが、運の話を書いてみたいと思います。

 

私は昔からずっと運が良いのですが、今日はその理由を紐解いてみたいと思います。


ここ最近、私は何でこんなに運が良いのかを考えていました。

だって、普通に考えてありえないんですよ。

 


私のような内向的の極地にいた人間は、人とのコミュニケーションなんてまともに取れませんから、

 

普通に考えたら引きこもって人生詰んで、今頃5080問題(中高年の引きこもり問題)に巻き込まれていても不思議ではなかったはずです。


なのに、10代後半からずっとリア充で、それなりに良い人生を歩んできました。

 

 

それはなぜか。

一言で言えば、ジャッジをしなかったからです。


私は昔から神様の存在をずっと信じていた人間で、所詮人間の決めることなんて、たかが知れている。

 

それよりも、人はもっと大きな存在、見えない力に動かされているという感覚を持っていました。

 


なので、神様の導きとか、神様の采配みたいなものをずっと意識して生きてきたのです。

 

そうなった原因は、幼少期から「日本昔ばなし」を見て育ったり、童話から大切なことを教えてもらったり、

 

父親から道徳心や、仏教の教えを叩き込まれたことが背景にはあります。

 


でも、一番はなぜか感覚的に昔から、「神様は確かにいるような気がする」「絶対に見えない力に守られている」という感覚があったからなのです。

 

何せ、ロクでもない家庭環境で育っているので、そういうものを信じることで、日々のストレスから解放されたかったのかもしれません。


とにかく、こういう感覚を自然と持ち、日々の生活で活用していたのです。
 

 
それがよくわかる例を一つ出します。

 

過去にこのブログで、恋愛の話を書いた時にも少し触れましたが、私は今までの恋愛で交際相手を一度も自分で選んだことがありません。


ほぼ全て紹介で知り合っているのですが、そうして知り合った相手を自分の都合で断ったことがありません。

 

 

必殺、「来た人は断らないスタイル」です(笑)

 
友人から「いい人いるから紹介するよ」と言われ、「わかった」と返事をし、そのまま相手の男性を連れてこられ、即お付き合いをしているのですが、

 

友人が連れてきた相手に私は、一度たりともジャッジをしたことがないのです。

 


それは何故かと言えば、ご縁があって目の前に現れた人は、神様が選んで連れてきてくれた人だと思っているからです。

 

もっと言えば、私に男性を紹介してくれた友人も、神様の采配によって私の友人として選ばれているはずであり、

 

その友人が選ぶ人が、変な人を連れてくるわけがないという確信があるからです。

 


普通はいきなり紹介されて、初対面の人と会うというのは勇気のいることだと思います。

 

でも私は全く気にせず、言われた通りすぐに会いに行き、そのまま相手を受け入れてお付き合いをしてきました。


その根拠は、神様がキャスティングミスをするはずがないという信頼があるからです。

 

 

もし私に今、恋人が必要なら、適切な人が適切なタイミングで与えられるはずだ。

 

という信頼です。

 
なので、最初に彼に会った時、この人は必要があって、今私の所に来ていると考えているので、こちらから断るなんて選択肢はまずありません。

 

 

でも多くの人を見ていると、せっかく適切な人が目の前に来ているのに、顔がタイプじゃないとか、声が気に入らないとか、背が低すぎるとか。

 
他にも収入面や学歴や職歴や、表面的なことで色々ジャッジして、あの人とは付き合えないと断ってしまったりします。

 
でもそれってもったいないし、全て自分のエゴなんです。

 

 

運命の人を自分のエゴでジャッジして避けてしまうから、永遠に恋人ができなかったり、自分の裁量(主に条件)に固執して、変な人を掴んで不幸になったりするのです。

 
そして私には、それが一切ありませんでした。

 

過去にお付き合いした人に、収入や学歴や身長や、そういったものを聞いたことは一度もありません。

 

 

付き合う前に条件を確認したことがないのです。

 

 条件は何一つ知らずに付き合っています。

 

何故なら、さっきも言ったように、神様が送り込んで来た人なら、絶対に変な人であるはずがないという信頼があるからです。

 


私が人生で初めて付き合った人は、外見が大泉洋さんにそっくりでした。

 

個人的にタイプかと言われれば、そうではないです。


どちらかと言うと、私はバナナマンの日村さんみたいな顔がタイプです(笑)

 

それはさておき、第一印象で好みの顔と違うなと思ったとしても、そのジャッジを自分でしないということが大事なのです。

 


そうすると、どうなるか。

 

付き合ってみると、本当にまさに自分にピッタリの相手で、神様から派遣されてきたとしか思えない人だったりするのです。


分かりやすく言えば、


当たり


です(笑)

 

 

私が初めて男性とお付き合いをした時、それはそれは酷い状態でした。

 

まともに相手の目も見れない、会話も出来ない、ずっと緊張してお水ばかり飲んでいる。

 

勇気を出して何か喋ったら、吃音で何言ってるか自分でもわからなくなる(笑)

 


そもそも、私に恋愛なんて無理だという思い込みも強かったので、メンタルブロックが強く発動されていたのでしょう。

 

「どうしよう・・・」

 

何も喋れない自分にひどく落ち込みましたが、素直に「ごめんなさい」と伝えると、

 
「焦らなくてもいいよ。ちょっとずつ俺に慣れてくれればいいから。」

 

と、ミスチルの歌詞みたいなことを言ってくれるわけです。

 


もう完璧なキャスティングです。

 

そもそも、友人も私のシャイで内気な性格を知り尽くしてますから、紹介する男性も私にピッタリの人を選んで紹介してくれています。


普通なら、まともに喋れないコミュ障の女子なんて、一回会って終わりです。


次は二度とありません(笑)

 


でも、そうはならない。

 

他人に心を開くのが苦手な私を丁寧にフォローし、気長に寄り添いながら、ずっと一緒にいてくれる人が、ちゃんとパートナーとして来てくれるのです。

 

こんなの普通ならありえない話です。

 


こういうのを神様からのギフトと呼ぶんだと思います。

 

そして、私はそのギフトを受け取るのが上手いから、ずっと運が良いのだと思います。

 
正確にもっと細かく言えば、普段の自分の行いがこのギフトの質を決めるので、日頃どういう友人と付き合っているか、


自分が日々どういう態度や心で生きているかも、神様からジャッジされています。

 


なので、適当な生き方をしている人には、きっとそれなりのものしか来ないのだと思います。

 

私は神様を信じて、毎日を丁寧に積み重ねていたから、ギフトの質が良かったんだと思います。

 
そもそも、自分の見る目が狂っていると、正しくギフトを受け取る事すら出来ないので、自分の感性を磨くことが一番大切ですが、

 

それさえ出来ていれば、自分の身の丈に合った適切な人がちゃんと来てくれるのです。

 


そして、自分が誰かの所に派遣される時も、同じように適切な場所に運ばれて行きます。


そしてこれは基本的なことですが、そうして神様から派遣されてきた相手と言うのは、

 

基本的に自分の魂を成長させるための修行相手ですから、その相手と一緒にいることで、自分自身が成長することが大前提です。

 


人と話すのが苦手、コミュニケーションがうまく出来ない、心を開くことに強い恐怖を感じるといった、元々自分が持っているパーソナリティの問題は、

 

自分で努力して解決するしかないので、出会った修行相手の力を借りながら、一つ一つ自分で乗り越えていく必要があります。


どういう人と出会えるかは本当に運であり、その運を自ら妨げるジャッジはしない。

 

これが運をよくするための一つのポイントです。

 

 

書道家武田双雲さんは、自分で食べるご飯のメニューすら、自分で決めたことがないとおっしゃっていました。

 

奥様が選んでくれたものをそのまま食べる。

 

お子さんが選んでくれたものをそのまま受け入れる。


普段からそうされているので、彼もとても運が良く、勝手に成功の道へ運ばれていったようです。

 

 

自分で決めているうちは、エゴによって神様の声がまともに聞こえませんから、ジャッジを手放すということを、人生の選択肢の一つに入れてみても面白いのかなと思います。


人は人から救われる、それも神様が派遣した方々によって。

 

人脈とは言い換えれば神脈であり、どう考えてもこの人神様から派遣されたよな~としか思えないタイミングで出会う人、状況というのがあるのです。

 


それを素直にキャッチ出来るか。

そこが本当に重要です。

 
そしてそもそも、私の場合は育った家庭環境の影響で、元々エゴなんて持っていなかったというのも大きいと思います。

 

エゴとかその類のものは、幼少期に根こそぎママンに奪い取られてますから(笑)

 

 

我が家ではエゴ(自分の意志)を発動したら、容赦なくママンに潰される家だったので、エゴがない性格に育つのは自然といえば自然ですけど。

 

その結果、運が良くなったのだとしたら、まぁ、あの厳しい教育も良かった面もあるのかな。

 

運の話は他にもまだまだあり、シリーズ化出来そうなので、残りはまだ次回にでも書いていきたいと思います。

 

 

ちなみに、体調が悪かったり自分の感性が鈍っていて、おかしなものを受け取ってしまうことも時々あります。


そういう時は、だいたい良くない結果になるので、すぐにわかります。


ジャッジをしない+受け取る側の準備態勢を万全にしておく。

 

これが重要です。

 


もちろん人間は完璧じゃありませんから、ギフトをうまく受け取れない時や、受け取り方を間違う時もあります。

 

それも含めて、トータルで運が良ければ、結果いい人生になるのかなと思っています。


基本的な考え方は、人生の判断基準を、自分基準ではなく神様基準にしているということです。

 

そんな訳で、私は日々の人生で神様のことを考えない日は一日たりともないので、結果うまくいっているんだと思っています。

否定の延長にある世界

私の尊敬する与沢さんが、こんな事を言っていた。

 

「否定の延長にある世界は冷静で理知的であろうが、ぎくしゃくした夢のない世界」

 

 

 

これは本当にそうで、親から否定され続けて、一回も褒められたことがない私が体感しているから、もう本当に間違いない。

 

子供を褒めずに否定して育てたら、その子供は確実に人生を詰む。

 


否定されたことにより、「どうせ自分なんて」から始まる人生は本当に地獄だ。

 

そして、そんな自分を庇うように、外側を丁寧に取り繕って埋めていく。

 

でも、中身は不安や恐怖や無力感や自信のなさでいっぱい。

 

そしてそれを、子供自ら立て直す苦労は、親が想像を絶する大変さなのです。

 

 

冷静で理知的というのがまさに言い得て妙で、否定の先の諦めのゾーンに辿り着いた時、人は妙に落ち着いて、恐ろしいほどに賢くなっていく。

 

しかしそこに、愛や安らぎはない。

 

 

スティーブ・ジョブズは、「最後の言葉」という手記にこんな言葉を残しています。

 

「私はビジネス界において、成功してきたと言えるだろう。他人の目には、私の人生は典型的な成功例に見えると思う。

 

しかし私は、仕事以外では少しも喜びを感じることはなかった。

 

そして私は気付いた。死ぬ時に最後に持っていけるのは、愛に溢れた思い出だけなのだと。」

 

 

私も41歳でようやくここに気付き、今は毎日を全力で楽しんで、思い出を作る事だけに専念しています。

 

あのまま親の呪縛を解かずに、「もっと凄い人にならなきゃ」「成功して世の中に価値を与えなきゃ」なんて思っていたら、人生の最期に本当に後悔したでしょう。

 

 

なぜなら、成功や実績はこの世では有効でも、あの世では全く関係ないからです。

 

重要なのは、何かを成し遂げるプロセスを本人が楽しんでいたかどうかで、もし何かを達成するプロセスに楽しさを感じない、または義務でやっているのなら、まだ遊んでいた方がマシだということです。

 

 

今は昔と違って、子供を褒める教育がだいぶ増えてきたので、昔の私のように戸塚ヨットスクール並みの厳しさで育つ子供は少ないと思いますが、

 

もし過度に子供を厳しくしつけている親がいるとしたら、私のような人間が育つ可能性があるよ?っていうことを、さりげなく言っておきたいです。

 

 

スキゾイドになったら悲惨ですよ。

 

全部諦めないと生きていけないから。

その先には、本当に夢のない世界しかないから。

内観の扉

私が内観をやっていると言うと、自分もやりたいけれど、やり方がさっぱりわからないし、実際にやってみてもうまくいかないという人がいる。

 

それは一言で言えば、覚悟が足りないからで、徹底的に自分と向き合う覚悟を決めた人にしか、内観の扉は開かない。

 

 

特に親の呪縛や長年のストレスやトラウマで、人格レベルで大きく「自分」が歪んでいる人は、

 

人生を懸けた大掛かりな修正作業になるわけで、それを小手先の何かで簡単に済まそうと思っても、うまくいくわけがない。

 

 

ここ最近、内観関連で知り合って、私と同じように自分を修正してきた方々は、例外なく絶望の淵に落ち、背水の陣で後がない状態だった。

 

嫌でも自分と向き合わざるを得ない状態になり、究極的に追い込まれた状況になって、ようやく重い腰を上げた人ばかりだ。

 

 

そして内観というのは、この追い込まれた状態になって初めて本当の脳が動く。

 

なんて言うか、今までにアクセスした事がない脳の深い場所がスッと開く感じ。

 

だいたい、自分と本気で向き合う時というのは、「今このタイミングでやりなさい」という神様からのお知らせが来る。

 

 

そのタイミングというのが、病気、怪我、事故、精神疾患、借金苦、失業、貧困、死に際、人間関係の苦悩、人生への絶望と諦め、死別や離別、各種災害など。

 

これらの問題が、一定の水準以上で自分自身に耐え難い苦痛として襲ってきた時に、人は初めて本気で自分と向き合う。

 

逆に言えば、普通に生活出来ているうちは、まず無理だということ。

 

 

これは軽い気持ちで、日々の変化を求めて参加する自己啓発セミナーとは訳が違う。

 

人格から根こそぎ変える。
人生を一からやり直すのと同じだ。

 

 

そして、自分と向き合うのに、特別なテクニックやノウハウなどは必要なく、ただひたすら自分で自分を観ていくだけ。

 

くれぐれも、3分で潜在意識を書き換える方法とか、心のブロックを一瞬で解除する方法とか、そういうものには騙されないように(笑)

 

 

そんなに都合よく一瞬で変われたら、この世の中、全員魔法使いになってますので。