今日は番外編というか、ちょっと長いですが、運の話を書いてみたいと思います。
私は昔からずっと運が良いのですが、今日はその理由を紐解いてみたいと思います。
ここ最近、私は何でこんなに運が良いのかを考えていました。
だって、普通に考えてありえないんですよ。
私のような内向的の極地にいた人間は、人とのコミュニケーションなんてまともに取れませんから、
普通に考えたら引きこもって人生詰んで、今頃5080問題(中高年の引きこもり問題)に巻き込まれていても不思議ではなかったはずです。
なのに、10代後半からずっとリア充で、それなりに良い人生を歩んできました。
それはなぜか。
一言で言えば、ジャッジをしなかったからです。
私は昔から神様の存在をずっと信じていた人間で、所詮人間の決めることなんて、たかが知れている。
それよりも、人はもっと大きな存在、見えない力に動かされているという感覚を持っていました。
なので、神様の導きとか、神様の采配みたいなものをずっと意識して生きてきたのです。
そうなった原因は、幼少期から「日本昔ばなし」を見て育ったり、童話から大切なことを教えてもらったり、
父親から道徳心や、仏教の教えを叩き込まれたことが背景にはあります。
でも、一番はなぜか感覚的に昔から、「神様は確かにいるような気がする」「絶対に見えない力に守られている」という感覚があったからなのです。
何せ、ロクでもない家庭環境で育っているので、そういうものを信じることで、日々のストレスから解放されたかったのかもしれません。
とにかく、こういう感覚を自然と持ち、日々の生活で活用していたのです。
それがよくわかる例を一つ出します。
過去にこのブログで、恋愛の話を書いた時にも少し触れましたが、私は今までの恋愛で交際相手を一度も自分で選んだことがありません。
ほぼ全て紹介で知り合っているのですが、そうして知り合った相手を自分の都合で断ったことがありません。
必殺、「来た人は断らないスタイル」です(笑)
友人から「いい人いるから紹介するよ」と言われ、「わかった」と返事をし、そのまま相手の男性を連れてこられ、即お付き合いをしているのですが、
友人が連れてきた相手に私は、一度たりともジャッジをしたことがないのです。
それは何故かと言えば、ご縁があって目の前に現れた人は、神様が選んで連れてきてくれた人だと思っているからです。
もっと言えば、私に男性を紹介してくれた友人も、神様の采配によって私の友人として選ばれているはずであり、
その友人が選ぶ人が、変な人を連れてくるわけがないという確信があるからです。
普通はいきなり紹介されて、初対面の人と会うというのは勇気のいることだと思います。
でも私は全く気にせず、言われた通りすぐに会いに行き、そのまま相手を受け入れてお付き合いをしてきました。
その根拠は、神様がキャスティングミスをするはずがないという信頼があるからです。
もし私に今、恋人が必要なら、適切な人が適切なタイミングで与えられるはずだ。
という信頼です。
なので、最初に彼に会った時、この人は必要があって、今私の所に来ていると考えているので、こちらから断るなんて選択肢はまずありません。
でも多くの人を見ていると、せっかく適切な人が目の前に来ているのに、顔がタイプじゃないとか、声が気に入らないとか、背が低すぎるとか。
他にも収入面や学歴や職歴や、表面的なことで色々ジャッジして、あの人とは付き合えないと断ってしまったりします。
でもそれってもったいないし、全て自分のエゴなんです。
運命の人を自分のエゴでジャッジして避けてしまうから、永遠に恋人ができなかったり、自分の裁量(主に条件)に固執して、変な人を掴んで不幸になったりするのです。
そして私には、それが一切ありませんでした。
過去にお付き合いした人に、収入や学歴や身長や、そういったものを聞いたことは一度もありません。
付き合う前に条件を確認したことがないのです。
条件は何一つ知らずに付き合っています。
何故なら、さっきも言ったように、神様が送り込んで来た人なら、絶対に変な人であるはずがないという信頼があるからです。
私が人生で初めて付き合った人は、外見が大泉洋さんにそっくりでした。
個人的にタイプかと言われれば、そうではないです。
どちらかと言うと、私はバナナマンの日村さんみたいな顔がタイプです(笑)
それはさておき、第一印象で好みの顔と違うなと思ったとしても、そのジャッジを自分でしないということが大事なのです。
そうすると、どうなるか。
付き合ってみると、本当にまさに自分にピッタリの相手で、神様から派遣されてきたとしか思えない人だったりするのです。
分かりやすく言えば、
当たり
です(笑)
私が初めて男性とお付き合いをした時、それはそれは酷い状態でした。
まともに相手の目も見れない、会話も出来ない、ずっと緊張してお水ばかり飲んでいる。
勇気を出して何か喋ったら、吃音で何言ってるか自分でもわからなくなる(笑)
そもそも、私に恋愛なんて無理だという思い込みも強かったので、メンタルブロックが強く発動されていたのでしょう。
「どうしよう・・・」
何も喋れない自分にひどく落ち込みましたが、素直に「ごめんなさい」と伝えると、
「焦らなくてもいいよ。ちょっとずつ俺に慣れてくれればいいから。」
と、ミスチルの歌詞みたいなことを言ってくれるわけです。
もう完璧なキャスティングです。
そもそも、友人も私のシャイで内気な性格を知り尽くしてますから、紹介する男性も私にピッタリの人を選んで紹介してくれています。
普通なら、まともに喋れないコミュ障の女子なんて、一回会って終わりです。
次は二度とありません(笑)
でも、そうはならない。
他人に心を開くのが苦手な私を丁寧にフォローし、気長に寄り添いながら、ずっと一緒にいてくれる人が、ちゃんとパートナーとして来てくれるのです。
こんなの普通ならありえない話です。
こういうのを神様からのギフトと呼ぶんだと思います。
そして、私はそのギフトを受け取るのが上手いから、ずっと運が良いのだと思います。
正確にもっと細かく言えば、普段の自分の行いがこのギフトの質を決めるので、日頃どういう友人と付き合っているか、
自分が日々どういう態度や心で生きているかも、神様からジャッジされています。
なので、適当な生き方をしている人には、きっとそれなりのものしか来ないのだと思います。
私は神様を信じて、毎日を丁寧に積み重ねていたから、ギフトの質が良かったんだと思います。
そもそも、自分の見る目が狂っていると、正しくギフトを受け取る事すら出来ないので、自分の感性を磨くことが一番大切ですが、
それさえ出来ていれば、自分の身の丈に合った適切な人がちゃんと来てくれるのです。
そして、自分が誰かの所に派遣される時も、同じように適切な場所に運ばれて行きます。
そしてこれは基本的なことですが、そうして神様から派遣されてきた相手と言うのは、
基本的に自分の魂を成長させるための修行相手ですから、その相手と一緒にいることで、自分自身が成長することが大前提です。
人と話すのが苦手、コミュニケーションがうまく出来ない、心を開くことに強い恐怖を感じるといった、元々自分が持っているパーソナリティの問題は、
自分で努力して解決するしかないので、出会った修行相手の力を借りながら、一つ一つ自分で乗り越えていく必要があります。
どういう人と出会えるかは本当に運であり、その運を自ら妨げるジャッジはしない。
これが運をよくするための一つのポイントです。
書道家の武田双雲さんは、自分で食べるご飯のメニューすら、自分で決めたことがないとおっしゃっていました。
奥様が選んでくれたものをそのまま食べる。
お子さんが選んでくれたものをそのまま受け入れる。
普段からそうされているので、彼もとても運が良く、勝手に成功の道へ運ばれていったようです。
自分で決めているうちは、エゴによって神様の声がまともに聞こえませんから、ジャッジを手放すということを、人生の選択肢の一つに入れてみても面白いのかなと思います。
人は人から救われる、それも神様が派遣した方々によって。
人脈とは言い換えれば神脈であり、どう考えてもこの人神様から派遣されたよな~としか思えないタイミングで出会う人、状況というのがあるのです。
それを素直にキャッチ出来るか。
そこが本当に重要です。
そしてそもそも、私の場合は育った家庭環境の影響で、元々エゴなんて持っていなかったというのも大きいと思います。
エゴとかその類のものは、幼少期に根こそぎママンに奪い取られてますから(笑)
我が家ではエゴ(自分の意志)を発動したら、容赦なくママンに潰される家だったので、エゴがない性格に育つのは自然といえば自然ですけど。
その結果、運が良くなったのだとしたら、まぁ、あの厳しい教育も良かった面もあるのかな。
運の話は他にもまだまだあり、シリーズ化出来そうなので、残りはまだ次回にでも書いていきたいと思います。
ちなみに、体調が悪かったり自分の感性が鈍っていて、おかしなものを受け取ってしまうことも時々あります。
そういう時は、だいたい良くない結果になるので、すぐにわかります。
ジャッジをしない+受け取る側の準備態勢を万全にしておく。
これが重要です。
もちろん人間は完璧じゃありませんから、ギフトをうまく受け取れない時や、受け取り方を間違う時もあります。
それも含めて、トータルで運が良ければ、結果いい人生になるのかなと思っています。
基本的な考え方は、人生の判断基準を、自分基準ではなく神様基準にしているということです。
そんな訳で、私は日々の人生で神様のことを考えない日は一日たりともないので、結果うまくいっているんだと思っています。