私は子供の頃から、極度の平和主義者でした。
元々、父親が裏社会にいた人だったから、反社会的なものへの抵抗も大きかったのかもしれません。
わざわざプロフィールにも、自分が平和主義者であることのアピールを欠かさずに書いていたし、平和こそ正義だと信じて疑いませんでした。
でも自分の認知を整理していて気付きました。
平和主義者や平和研究をしている人、平和活動をしている人は、子供の頃に自分自身が育った家庭環境が平和でなかった人が多いのです。
安心安全な環境で育つことが出来なかった人が、平和活動に携わっているケースがとても多いことに気付き、私も確かにそのケースだなと思いました。
そしてその気持ちの根っこにあるものは、平和活動をすることで、自分が小さい頃に満たされなかった「安心安全が欲しい」という気持ちを満たそうとする欲求であり、
世界の平和や、社会に安心安全を求めることで、同時に幼少期の自分の心の傷も一緒に癒そうとしていることに気付いてしまったのです。
結局、平和への欲求は「子供の頃に満たされなかった自分自身の安心安全を満たしたい」という願望であり、その根っこの感情を全て処理すると、不思議なほどに平和への思いはなくなっていくのです。
それによって私は、自分のプロフィールから平和という言葉を削除することが出来ました。
何故なら、平和という言葉を連呼する度に、それが「私の中にいる小さい子供の安心を満たして!」と聞こえるようになってしまったから。
そして面白い事に、子供の頃に温かく平和な家庭で育った人は、平和活動にも参加しないし、戦争反対!みたいなキーワードも全く口にしない。
そこに何の執着もないから。
結局、全て子供時代の呪縛なんですよね。
根底にある愛情への執着みたいなものを外していくと、過度に平和や戦争というキーワードに反応することがなくなっていきます。
じゃあ何で、世界には戦争をしている人たちがいるのか。
戦争を使って、何か満たしたいものがあるからですよね。
争いがないと困る人たちというのが一定数いて、戦争がなくなると行き場を失う人がいる。
その原点は結局、全て子供時代に埋め込まれた親や社会からの呪いなんですよね。
そして過度に戦争反対と言ったり、戦争をしている国や人々に対して憐憫の気持ちが生まれたりするのも、幼少期の愛情で満たされなかった自分自身への投影でもあるということ。
本人は無意識なんだけど、いつかの両親が激しく喧嘩している風景と記憶の中で重なってしまっていて、戦争は見たくないって反応になってしまう。
だけど本当に見たくないものは、そのいつかの両親の喧嘩の記憶なんですよね。
世界が平和であることは、私たちが生きていくうえで、とても大切なことではあるんだけれど、その平和への願いの原点が、「自分が小さい頃に満たされなかった温かい家庭像を満たしたい、親からの安心安全を手に入れたい。」みたいなところから始まっていると、
辿り着くゴールも大幅にズレてしまうので、自分は何のために平和を求めているのかを深く掘り下げていくと、色々気付ける大切なことがあるのかなと思います。
特に過度に平和という言葉に反応する人は、自分自身の幼少期の家庭環境、親との関係性を全て振り返る必要があるので、大変ですが根こそぎ洗い出して感情面を整理していきましょう。