11月20日から本格的な風の時代が到来したと言われていますが、本格的な風の時代って何?と思っているちょこです、どうもこんばんは。
今日は「美味しさ」について書いてみたいと思います。
私が今参加しているコミュニティで「美味しいとは一体何であるか」みたいな問いがあったんですけどね。
こんなの考えても答えの出ない問いのように思うじゃないですか。
あなたにとって美味しさとは何ですか?って聞かれて、即答出来る人ってなかなかいないと思うんですよね。
何かを食べて美味しいと感じる。
または、まずいと感じる。
でもそれを詳細に言語化出来る人ってあんまりいないと思うんです。
そこで私です。
この美味しさについて言語化してみました(笑)
「美味しい」とは何かと問われた時に、私は美味しさとは何かを食べた時に、脳がそれを快と判断するか不快と判断するかのシンプルな話だと思ってるんですよね。
これに気付いたのが小学生の頃で、そのきっかけになったのが私が子供の頃に見た「一杯のかけそば」という映画なのですが、この映画を見た時に私の中に「蕎麦=悲しい食べ物」という認識が出来てしまったんですよね。
お金がなくて蕎麦を三杯注文することが出来ず、一杯のかけ蕎麦を親子3人で分け合っている。
何て貧しいんだ、何てかわいそうなんだという悲しみが、私の中にお蕎麦とともにインプットされてしまったんです。
だから私は今でもお蕎麦を見ると、悲しいという感情とともに不快な気持ちになるんです。
それ以来どれだけ美味しいと言われるお蕎麦を食べても、蕎麦=悲しいというイメージが先に出てきてしまい、美味しく食べれなくなってしまったんです。
それくらい裕福な家で何不自由なく育った私には、あの「一杯のかけそば」の世界が衝撃だった。
でその時に、どうやら美味しさは感情とリンクしてそうだぞと思い始めたんですね。
そして世の中には、わりと何でも美味しいと文句を言わずに食べる人と、食べ物にあれこれジャッジをして、これは美味しいけどこれは美味しくないとか、ずっと文句を言っている人がいる。
この違いは何だろう?と考えた時に、一つの結論に辿り着いたんです。
それが原体験として、家庭での食事風景が苦痛だった人は、何を食べても満足しない、そもそもの美味しいのレベルが高すぎるという結論だったんです。
私は今のところ「美味しい=喜び」、つまり脳にとっての快であると定義しています。
ということは、美味しいと感じる食べ物が多い人は、そもそも食べることに対する喜びの原体験があり、そうでない人は喜びの原体験が少ない。
つまり、食事というのは味覚を満たすものではなく、自分の感情を満たすものなんです。
なので、世の中色々食べ歩いてるけど、美味しいと思った食べ物があまりないという人は、味ではなく「食事=楽しい」「食べる=喜び」という感覚がいつまで経っても満たされないから、永遠に美味しいものに辿り着けないのではないかということなんです。
逆に何を食べても美味しいという人は、子供の頃の食事の時間が楽しかった人であり、実際何を食べるにしても、本当に美味しそうに食べるんですよね。
だから美味しいの基準が高い人は、本当に心から食事を楽しいと感じて、愛情溢れる食卓風景をそもそも経験したことがないことが原因であり、
美味しいものを探してずっと彷徨っている人に本当に必要なのは、大好きなパートナーと一緒に食事をする喜び、真の愛情を知ることの方なんだと思うんですよね。
なので私は、食べ物にずっと文句を言っていたり、善悪のジャッジを繰り返している人を見ると、この人本当に誰かから深く愛された経験がないんじゃないかなって思ってしまうんですよね。
この感覚は、私も相当深く内観をして気付き、徐々に確信に変わっていったものなので、もし自分も同じ感覚があるかも?って方はぜひ深堀りして自分に問いかけてみてください。
これはわりと摂食障害の人たちがヒントになるのですが、過食や拒食の問題も根っこは愛情問題なので、結局「食=愛情」なんですよね。
カップラーメンばかり食べちゃう人も根っこは愛情不足なのと同じように。
(鍵っ子で育って、一人寂しく冷えた食事を食べていた人は、大人になってもジャンクフードを食べがち!)
だから味がどうとか色々言うけれど、本当に満たしたいもの、満たされたいもの、満たされなければいけないものは心の方であり、愛情つまり自分が本当に喜びをもって食事が出来る環境の方なんです。
それにはまず、小さい頃の嫌だった食事の風景の記憶を全て整理すること。
本当は美味しいものじゃなくて、愛情を求めているんだよと気付くということ。
何故なら、美味しいものを求める根底にあるのは、結局誰かに愛されたいという気持ちだから。
まず自分にとって美味しいの価値観が歪んでないかな?
「美味しい=喜び」がちゃんと満たされているかな?
そして本当に欲しているのは、美味しいものを食べることではなく、誰からの深い愛情。
つまりそれは自分にとっての快の居場所をずっと探してるのであり、この世に心から信頼できる居場所が見つかっていないとも言えるんじゃないかな?
みたいなところを掘り下げていくといいと思います。
味にうるさい人って、ずっと美味しいを探し求めてるんだけど、本当に満たされたいのは味覚ではなくて、嬉しいという感情、心の喜びの方なんだってことに気付くと、何を食べるかではなく、どういう環境で誰と食べるかがどれだけ大事かにシフトしていけると思うんですよね。
(美食家だった人が、素敵な奥さんをもらって家で食事をするようになったら、全く食べ歩きをしなくなったとか、わりとあるある~。笑)
子供の頃に家族で楽しく食卓を囲んだ経験のない人、そして大人になってからも本当に愛する人と一緒に食事をした経験が少ない人、今この瞬間にも喜びを共有して一緒に食事をしてくれるパートナーがいない人。
こういう人は美味しいもの探しではなく、自分にとっての食事の原体験をひたすら見直していくと、食べ物に対する考え方が劇的に変わると思います。
味にうるさいのは慢性的な愛情不足が原因だったりもするので、根っこに本当に深い愛情をもった食事体験が出来ると、脳がこれは快、これは不快というジャッジをする機会が大幅に減るからです。
無論、私も家庭での食事の時間が全く楽しくない側の人間だったので、だからこそこういう分析に至ったわけですけど(笑)
こんなふうに「美味しさ」一つとっても内観が出来るのが面白いところですよね。
というわけで、今日は美味しさについて書いてみました。